回顧

NSP CLUBをはじめて、18年が経とうとしています。

そもそもは1994年のシンバフットボールクラブからスタートしていますが、社会人の継続の難しさであったり、少年チームを立ち上げることの困難さは、いやになるほど味わってきました。

社会人チームをやめようと思ったのは、その参加の意識が低いことがあげられるのですが、本気でサッカーをしたければユニフォームは必要ですし、一人あたり月3000円程度の運営費、登録費が必要になります。

しかし、それさえ払うことができなかったり、払わなかったりする人が出たりする、審判をやりたくないと拒絶する人がでてくるなど、大人の醜さを知ったからやめたという部分があります。

「もっとゆるく考えようよ」という人もいますが、私はやるなら本気でやろうよというクチなので、私が代表という立場であれば、これらは受け入れられなくなってしまうわけです。

・・・と、方向がそれました。

2007年1月にプロサッカー選手からの引退した高木成太は、当初別のところで指導者としてスタートしたのですが、さまざまなことがあり横浜FCサッカースクールのコーチだけではなく、彼が中心となる組織を立ち上げるべく友人たちでプロジェクトを作ったのがはじまりでした。

葛飾区のステーキ屋で集まり、それぞれがお金を出し合ったのがNSP CLUBでした。

6月からスタートし、募集をかけましたが最初は誰も来ない・・・

誰も来ないグラウンドを2時間、高木と私できれいに整備していたこともあります。

このころ、シンバフットボールクラブを改称してNSP CLUBとし、東京都4部に参加していたCELSUS FCと合併をしました。

少年だけではなく、大人までを網羅するクラブをつくるべく運営をはじめました。

スクールには少しずつ子供たちが集まり始め、墨田区の保護者の方が着始めた頃から活気づくようになります。

さらに大きくなるきっかけは、別府博昭という保護者の存在でした。

彼の息子は、所属するサッカーチーム以外で学ぶ場所として私たちのサッカースクールに参加してくれたのですが、その下の年代(当時幼稚園から小学校一年生)の子供たちが20人以上来るようになりました。

区連盟に登録するべく連絡をし、面談をしたりしていたのですが、役員の方々は最初から私たちを敵視していました。

理由は「元プロサッカー選手のチームができたら、子供たちがとられてしまう」というもの。

いくら私たちが選手募集に上限を設けるといっても、選手募集が難しいから今はこれだけしか選手がいないといっても聞き入れませんでしたし、当初はNPOにする予定でしたので「会計を見せろ」と言ってきたのです。

並行してジュニアユースの準備を進めていましたが、こちらも体験にせっかく30人近く参加してくれたというのに、邪魔が入って結果的に7名の参加のみに終わってしまいます。

それでも監督をたてて活動をしました。

U-12、U-15と準備を進めていましたが、U-15の監督を依頼した人が、区連盟で過去に処分を受けたことがある(正直言いがかりの部分がありました)ため、これがまた区連盟ともめることになりました。

結局、10ヶ月後にU-15の東京都への登録は認められず、区連盟はU-15の監督が所属するチームは認めないということが申し伝えられたため、その段階でU-15とU-12を断念し、U-15は行き先をみつけて解散、U-12は他の方が立ち上げるチームへ行ってもらい、区でのNSP CLUBの活動を終了させました。

このとき、U-12を別の組織へいざなってくれたのが先ほどの別府でした。

彼とは必ずまたU-12、U-15を立ち上げるぞと約束をして、その後も社会人のサポートをしてくれていましたが、社会人解散ののち病魔に倒れ、亡くなってしまいました。

一度病状がよくなった時に彼の息子は彼に「工藤さんと成太さんに言わなくていいの?」と尋ねたところ、元気になってから連絡すればいいよと答えたそうですが、その3日後に容体が急変し帰らぬ人になってしまいました。

葬式では悔しくて、悲しくて涙が止まりませんでしたね・・・・・

2010年でしたが、そのタイミングで高木に当時のランポーレ鈴鹿から監督のオファーが届きました。

スクールは私が続けることとし、高木は鈴鹿へということで一度NSPは社会人だけになります。(そのご社会人を解散しましたが)

スクールは募集をやめて当時いる選手だけで細々と続け、4年後に終了させました。

そして2016年に高木が関東に帰ってきてから再び彼独自で最初はスクールをはじめることとなりました。

理由は前に書いてあるU-15の監督とスクールをやるからということでした。

そのため、私は最初抜けていたのですが、その後私が合流する形になりましたが、NSPという名前は使わずに活動を行っていました。

ところが、本格的にスクールを開始する前に、高木とその監督とが決裂し、なぜかその監督と私がスクールをするということとなり、不思議な感じで2年ほど行っていました。

そこに2018年、高木から「松戸でサッカースクールを行いたい」ということで、私に声がかかりました。

並行してサッカースクールをすることは私の心に反することなので、先のスクールを年度で抜けて松戸でのサッカースクールを高木とはじめ、NSP CLUBサッカースクールを再開させました。

そこに現れたのが、Sさんでした。

彼の息子は所属クラブでの居場所をなくし、サッカーが嫌いになりかけていました。

そこで彼はインターネットで高木がやっている(元プロ選手がやっている)スクールに行ってみる?ということで息子を連れてきたのです。

彼の息子は最初は高木と私の三角パスだけだったのですが、声がけが違ったり、ほめることであったり、私たちはサッカー指導のプロだということを示すためにやっていることが、その選手にとってはうれしいものだったそうです。

そして数週後にはキーマンとなるOさん、Kiさん、Koさんなどなど、それぞれの息子がスクールにやってくるようになりました。

それが今のNSP CLUBのベースとなっています。

これがきっかけてさつき幼稚園での「高木成太サッカースクール」につながり、その幼稚園生がNSP CLUBの選手として入部してくれたのです。

最初は複数学年で16名でしたが、今では4年生までで40人ほどになり、当然ながら公式戦のために松戸市四種連盟に登録しています。

再来年度からは千葉県にも登録してリーグ戦にも参加をしようと考えています。

しかしながら高木が事情によりアドバイザーとなり、コーチへの専念がかなわなくなりました。

立ち上げ当初の別府、高木、工藤のうち、私のみが全面的に残る形となりましたが、今年中に一般社団法人化をすすめ、組織としてNSP CLUBを確立し、サッカー指導のプロがやっているクラブとして皆さんに知っていただこうと思っています。

そのためにも、私は今まで以上に精進してまいります。

そして、プロ選手のセカンドキャリアとしても選ばれるような組織を作り上げたいと誓います。

社会人旧メンバーとの再会

先日、米国で仕事をしているNSP社会人の選手だったメンバーが一時帰国していたので、飲み会に呼ばれて行ってきました。

終始サッカーの話やらくだらない話をしていましたが、とても楽しい時間でした。

北区会長杯に優勝を経験し、あの悔しい4部での敗戦を経験したメンバーでしたので、共有したものがたくさんあります。

なぜあの時に4部を勝ちきれなかったのか(優勝は全勝が条件でした)というと、一年目はJリーグ入りを目指すチームから分裂したチームと対戦し1-2で敗戦したこと、二年目は組織をきちんとまとめられなかったことと、監督である私が未熟だったのだと思っています。

当時は監督としては未熟だったのかもしれないと思うのは、勝負所で鬼になれなかったことではないかと思うわけです。

エースと、キャプテンの離反と当時は考えていましたが、離反であれば彼らをはずすべきだったのだと、今なら言えますし確実にはずします。

帰国したメンバーから「先日帰ってきてから参加したサッカーに「エース」がいましたが、当時のような輝きは全くなかったですね」と。

それはそれで残念なのですが、結局独りよがりであれば残念ながら周りから活かしてもらえないのかな?とも感じるわけです。

あの時のメンバーであれば、本来は2部で戦ってもおかしくないのですから、特に二年目の敗戦は、勝負に徹することができなかった私の責任でもあると感じます。

これは社会人チームとしての問題であり、NSPのU-12やU-15では考えられないことです。

社会人チームというのは、いくつかの方向性があると思いますが
・Jリーグ入りを目指して戦う
・少しでも上のリーグを目指す
・勝負を関係なく楽しむ
というのが代表的なものだと理解をしていて、私たちはその中の二番目でした。

ということは、勝負どころでは冷徹な判断も必要となるわけです。

つまりは徹しきれなかった私のミスでもあるわけです。

しかし、ジュニア、ジュニアユース世代にNSPという組織が望むことは「とにかくがむしゃらに勝利だけを目指す」のではなく、まずはサッカーを楽しむ、そのためにコーチは楽しむための工夫をしていくわけです。

そして楽しいサッカーを知った先に、試合をどう楽しむのか、勝つためにはなにをするのかを選手と共に構築していくのがNSPのサッカーだと考えています。

社会人で来る人は、その喜びをしっており、勝つことの意味を知っているからこそ、ジュニアやジュニアユースの選手に求めるものとは違うものを求める必要があるのです。

育成年代に慌てる必要がないと感じるのは、選手たちはいつ本当の意味で伸びるのか、タイミングが違うことがあるからこそ慌てなくていいのです。

確かに日本代表選手となった人と同じチームだった仲間に聞くと小学校からスーパーだったと聞きますが、伊東純也選手のように大学までは知られていなかった選手もいるわけで、それぞれ伸びるときは違いますし、幸運がめぐってくるタイミングも違います。

だからこそ私たちは勝利至上主義に走らずに、じっくりと6年もしくは9年間選手を育てていきたいと考えています。

ユニフォーム一式って高いよなあ・・・

NSP CLUBではユニフォームは選手が買取で、3年生から卒業まで使ってもらうことにしています。

これは保護者会で一番最初のメンバーと話し合った結果で、レンタルにしても結局年間5000円程度かかってしまうため、購入した方がいいとなりました。
※差額は購入が5000円程度高くなります

そのご請求をする度に高いなあ~と思ってしまうため、もうそれこそスポーツ加茂柏点さんにはいろいろご協力をいただいています。

私たちのクラブでは、その他の購入品はパンツ、ソックス、練習用Tシャツですが、来年度から両面タイプのビブスを個人で購入してもらうことにしています。

それもお金がかかるわけですから、子育てを経験した私は「ご家庭の都合は大丈夫かなあ」「子供にこれだけかかるのはたいへんだなあ」と思ってしまうわけで、本気のクラブチームの「はーい、ピステ、冬用のジャケット、パンツ、バッグも指定ね・・・そのほか・・・」なんてのは、絶対できないだろうなあと感じてしまうのです。

そもそも近隣の少年団より私たちは高い会費をいただいているわけですから、その理由をきちんと出さなくてはならない。

今は練習や試合の時のベンチを見ていただければ、その違いははっきりわかっていただけると思うのですが、やはり数年後には結果も求められてくるであろうと感じていますが、私たちは勝利至上主義にはしたくないためそのバランスを考えてクラブづくりをしていかなければなりません。

そのためには保護者の方々のご理解が必要ですが、少なくても現在ではご理解を頂戴しているようですので、期待に応えられているうちに選手たちにフィードバックをしたいと思っています。

サッカーはお金がかからないなんて言われましたが、私は強豪の少年団で遠征もありましたし、ユニフォームだなんだと、結構親に負担かけたよなあ・・・と思うわけです。

都道府県大会や全国大会の遠征費となれば、なおさらですので単純に出場できた時は喜びましたが、その裏で両親はどこを切り詰めようかなんて考えていたと思うと、ありがたいと思いながらも、いま私が預かっている選手たちには何ができるのか、考えながら運営するしかありません。

代表ですので、コーチとしてだけではなく、お金の面も考えていかねばなりませんね。