ピッチの内外共に罵声はいらない

過去に育成年代のベンチの罵声についてエントリーしたことがありますが、先日もあるグラウンドではコーチの怒鳴り声が響いていました。

何度も、何度も、何度も書きますが、まだそんなコーチや監督がいるのかと思うとともに、なぜそのような指導者がいるクラブにお子さんを預けるのか、いくら強豪であろうと私には理解ができません。

自分のお子さんは潰されないと思っていたら大間違いです。

何人もの選手が、くじけてしまっているのを、監督、コーチのただ言いなりになっているのをさんざん見ています。

しかし、今回申し上げたいのはピッチの外からの声でも、審判に対するものということです。

どこどこのサポーターだとおっしゃって、クラブを応援するのは良いことだと思います。

だが、主観的にのみ事象を捉え、特にレフェリーに対する罵詈雑言は到底許すことのできるものではありません。

レフェリーは過ちを起こした場合において、割当停止などの罰則を受けることがありますが、サポーターの方々はスタジアムでよほどのことをやらかさない限り出入り禁止などの厳しい措置はありませんし、それどころかSNS等でレフェリーどころかレフェリーに関して「サポーターの願う結果ではない発言をした」解説者の方や、元レフェリーの方への攻撃をしています。

当然ながら現役のレフェリーのSNSアカウントにも届くわけですが、一個人に対して「死ね」だの「レフェリーをやめろ」だの、一方的な思い込みで他者を傷つけていいはずがありません。

私は何度も書いていますが、そういう一部サポーターの暴挙(もちろんほとんどのサポーターの方はそういう方ではないと知っています)によって、クラブの価値そのものを傷つけることになりますし、先日も某チームで「負け試合が続いているのに拍手をするな」だの、声を出してはならないのに暴言やブーイングがあったりと、ただただ魅力を減少させるだけの行為をさせる人たちは排除すべきだと考えています。

そして、そのサポーターを見て見ぬふりをするサポーターも、私は同義に捉えることもあります。

その最たる例のチームが先のような行為をしているわけです。

この20年以上何も変わっていない。

・・・と、どこぞのクラブの問題だけではなく、ほぼすべてのクラブのサポーターが一方的な目線でレフェリーや関係者を言葉や態度で傷つけることは、良いレフェリーを育てなくなる行為に他なりません。

もし間違っていると思うのであれば、冷静に事象を検証し、その上で提案を行うべきであり、感情的になり他者へ怒りをぶつけるべきではないのです。

レフェリーをよりよくするために、私達インストラクター、アセッサーが存在しています。

もちろんそのインストラクターも千差万別ではありますが、サッカーの魅力を増すためのレフェリーを育てていきたいと誰もが願っています。

どうぞレフェリーについて、冷静なるご意見はありがたいのですが、罵詈雑言はやめていただき、特にプロリーグは必ずアセスメントが行われますので、アセッサーおよびマッチコミッショナーにお任せいただければと思います。

ピッチ内での(厳密にはピッチの外でテクニカルエリアですが)罵詈雑言についても、試合進行に関わる立場にもありますので私も努力をしてまいりますが、どうぞ保護者の皆様も「プロにしたい」「うまくさせたい」だけではなく、お子さんの心の成長のことも考えていただき、そうした指導者という人たちの罵詈雑言をなくするようにしていただければと思います。

審判の質に思うこと

昨日、全国シニアサッカー選手権東京予選の一回戦を闘ってきました。

この選手権予選は、主審・副審ともに東京都サッカー協会から派遣されるレフェリーの方たちで、ほとんどがアクティブレフェリーとして活躍されている方です。

そのためフォワードとして試合に臨む際、アシスタントが信頼できるS2の仲間だと見た瞬間に、本日のオフサイドの判定に間違いはないと確信しました。

そのチャンスは後半に訪れました。

一度相手ゴールから遠ざかり、味方DFとアイコンタクトをして相手DFの裏にボールを出してもらうその瞬間、猛ダッシュでゴール方向に向かいました。

蹴る瞬間の音を聞いたのは、オンサイドぎりぎりであることを確信し、そのままゴールへと向かったところ、相手DFはオフサイドと声をあげましたが、アシスタントの彼は全くフラッグをあげる様子もなく、私のラインに合わせてダッシュしていました。

・・・とまあ、これくらい納得のいくレフェリングを見せてもらえる機会というのは、なかなか私たちのゲームレベルではないと思っています。
※東京都シニアオーバー40、50の場合は1部リーグのみ全員が割り当て審判員

そのため、リーグ戦の場合相互の副審(主審は東京都サッカー協会からの派遣)であり、アクティブレフェリー経験がない方がほとんどですので、同じようなタイミングでもし走りこんだ場合に、オフサイドの判定をされる可能性が高いとも思っています。

ちなみに、たまに相互審判であってもアクティブレフェリーが選手にいたり、もしくはチームが依頼した審判員がアクティブレフェリーの時がありますが、これも同様に「ラッキー」と思っています。

審判の質は高めることは審判員本人でしかできないことです。

それはアクティブレフェリーとしてはトレセンであったり、地区の講習会や仲間から依頼がくる審判にでかけていったり、私のように暇な(暇じゃないんだけれどさw)インストラクターに見てもらって感想を言ってもらうなど、さまざまな方法で質を高める努力をしています。

アクティブレフェリーとして活動をしているときに、競技者のためにトレーニングをしている意識と言うのは常にありました。

レフェリーの準備はいくつかあります。

競技規則を頭に叩き込んでおくこともそうですが、やはりフィジカルの準備というのは大切で、たとえ50代であっても18歳の若者とスプリント勝負をしなければならない瞬間もあるのです。

そのために必死でフィジカルの準備をするわけですが、ただロングランだけでは難しいため、インターバルトレーニングをしてみたり、ヨーヨーをしてみたりと、毎度毎度体を酷使しています。

私の場合はそれらは過去形になり、ひたすらシニアサッカーで自分がプレーをするためにトレーニングを重ねていますが、レフェリーの皆さんは競技者のためにトレーニングを重ねているのですからみんなをリスペクトしています。

いま運営をしているNSP CLUB松戸U-12では、来年度にクラブとしての登録を、再来年度から3年生が公式戦をスタートすることになります。

そこにはアクティブの仲間であったり、保護者で手を挙げていただいた方にレフェリーをお願いすることになりますが、工藤個人としてはそこになんらかの有意義なものを提供していくことができればと考えています。

25年の恩をここでも返すことができればと思っていますので、手探りではありますがやっていこうと思います。

グラスルーツこそリスペクトが重要と思うこと

審判を永くやっているだけではなく、さまざまなカテゴリを経験したわけですが、実は上位にいけばいくほどレフェリーへのリスペクト度合いが高いと感じます。

Jリーグの練習試合などもさせていただきましたが、少なくとも選手たちの意識から乖離していないジャッジをしている段階においては、彼らは試合後にたいへん好意的に接してくれました。

還ってでは東京都四部となると、審判は組んだ試合の前後で相互にレフェリーをする状況で、審判のレベルが一定していないため、選手がジャッジに対して言いたくなることも理解はできます。

しかしながら自分がレフェリーで入った試合で、フラストレーションが前の試合まででたまっていたのかもしれないのですが、過去には異議に対してそれ以上は言わないでくれと依頼をしたところ「脅迫ですか?」としつこく言い寄られ、警告をせざるを得ない状況になった事もあります。

オフサイド判定なども私自身選手として経験したことがあるのは、明らかにパスの出し手がFWが二人目の守備側競技者の後ろからスタートした時にパスを出したというのに、受け取った段階で二人目よりゴールに近い状態でオフサイドの判定を下されたこともありましたが、少なくともアクティブできちんと活動されている人の中には、そのような人はほぼいないでしょうし、アクティブでも初心者が入る時には私もインストラクター外ではありますが、サポートに入る(つまりは観戦に行く)こともありますので、かなりの勉強をしているわけです。

それでもオフサイドが難しいため間違った判断をすることもあるわけですが、そういうことを含めて下位のリーグでは審判へのリスペクトが感じられない人が比較的多いと思うわけで、こういう部分を解消していかないと「審判は罰ゲーム」から脱却できないのではないかと思っています。

確かに私自身プレーヤーと真剣に向かい合っていた時に、ある方から「審判を真剣にやってみないか?」とお誘いを受けたわけですが、プレーヤーとしての自分の思いが強かったためお断りをしました。

しかし、その後新チームを作り下部リーグからのスタートをしたときに怪我をし、どれほど審判が重要であるかを感じ、2級云々の前に「自分がまずきちんとこなすことのできる審判になろう」と決意したことが、後のアクティブレフェリーにつながっています。

別にアクティブレフェリーになるということではなく、懸命に審判をこなし理解ができるジャッジをするのであれば、競技者は審判にリスペクトしていただきたいと願うだけであり、それ以上を全員に願うことはありません。

ただ、公式戦をする時に、そのジャッジをしてくれる審判たちを少なくともリスペクトしていただきたいということです。

それだけでもまずは何かが変わっていくだろうと感じます。