これは前横浜の筒香さんに届いた野球少年のお母さんからの手紙についての記事です。
行き過ぎた「指導」とか、必要以上のクラブへの協力とか、はっきり私は必要ないと思っています。
もちろん率先して子供達に蜂蜜レモンを持ってきてくださる方とか、お弁当を用意していただける保護者の方には本当にありがたいことだと思います。
私が現場に立っていた時には食育を含めてやっていましたので、コンビニのおにぎりやハンバーガーショップで済ますランチではなく、バランスを考えた食事を「作っていただけると助かります」と話をしていました。
そりゃ毎回は難しいため、たまにはコンビニで買ってねという方もいらっしゃいましたが、それは家庭の事情もあり仕方がないことだと理解していました。
しかし、記事中のコーチへのお菓子だお茶だなんだと、なんでそのようなものが必要なのか不思議でなりません。
コーチは保護者の方々などから施しをしてもらうべきではないと考えていますので、基本的に皆さんからという以外のものは受け取りません。
少なくとも私はそうしていました。
みんなが一緒に用意していただいて「コーチよろしかったら」と言っていただいた時のみいただいたりしたものですが、普段はそういうものを受け取ったりいただいたりしないようにしています。
なぜならそれが義務になってしまう恐れがあるのと、もう一つは特定の方から受け取ってしまうと、その特定の子供をひいきしているように見られる可能性もあるため、安易に受け取ることなどできないわけです。
あの子の方が何分多く出ているなんて、本気で言ってくる保護者の方がいらっしゃると、他のクラブの方か聞いたりすることさえあります。
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そもそも「指導」なんておこがましいと思っています。
サッカースクールで勝手に育った選手が、その後活躍してくれるのは本当に頼もしく思うのですが、じゃあそれは自分たちのおかげかといえば全くそうは思いません。
全部が全部違うとも言いませんが、少なくとも何かヒントをプレゼントできたかもしれないとは思いますが、「俺があいつを育てた」なんておこがましくて言えません。
いまたくましく育ったスクールの一期生は大学生となり、関東大学などで活躍する選手も出てきました。
しかし、それは本人の努力と、家庭の協力があったからこそできたことであり、コーチが指導をしたからうまくなったわけではありません。
ただ一緒にサッカーをやる中で、彼に何をつかんでもらうのかを考えながら、ただグラウンドで一緒に考え、ボールを追いかけただけです。
それを指導というのでしたら勝手にそういえばいいのでしょうが、私は一緒にサッカーをやることだと思っているので、偉そうに指導などとは言いません。
それは高木成太も一緒で、育てたなんて考えたこともないと言います。
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そうやって考えると、子供達に厳しすぎる、度を越した声掛けをするような「指導者」とか、暴力的な指導者などなにを考えているのやら?と思います。
自分では普通の声掛けだと思っていたとしても、周りで聞いている人が「おいおい」なんて思っているのはたぶん「しょっちゅう」なんでしょう。
育成世代でそういう声もよく現場で私も聞きますし、通りかかったグラウンドから罵声が聞こえてくるなんてのはしょっちゅうなわけですから、思ったよりも根が深い問題だと思っています。
私はある時に悪ふざけをした子供を叱ったことがあります。
他の子供に迷惑をかけるような行為がありましたので叱りつけましたが(怒鳴るとかではなく、諭す喋り方です)、親御さんには理由とかけた言葉と内容を説明し、もしお宅の教育方針と違うようなことがあればなんでもおっしゃってくださいと申し上げました。
怒られることを覚悟していましたが、その保護者は「コーチのことを信用しておりますし、普段叱ることのない人がなぜ叱ったのか、また理由がわかりますので私共としてはむしろ感謝しています」と言っていただいたのです。
叱るということは誉められたことではありませんが、小学生の育成年代というのは、友人間での問題などが発生した際には、ある程度コーチが間に入る、注意をしておく必要があると思っています。
その際にどうしてもこれはダメだと判断したときにはじめて「叱る」ということになったわけです。
もちろんその時にも声を荒らげるのではなく「なぜこういうことをしたのか。なぜ友人に対してそういう行為に及んだのか。きちんと考えなさい。」と投げかけましたが、彼は家に帰ってお母さんと話をしたそうで、次のスクールの時に「コーチ、この間はすいませんでした。(中略:本人が行った内容分析)もうしません。」と言ってきましたので、彼とは握手をして「頼むぞ」とやっただけです。
その後、彼は二度と友人に対して同じようなことをしませんでしたが、それは彼の中にきちんと考えが生まれたからだと考えています。
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私は審判指導においてもこれから今まで以上に取り組んでいこうと考えていますが、同じように考えさせるということを主眼にして、良い審判になってもらえるようなことができればと思っています。
だからこそ「自分が育てる」ではなく「勝手に育ってくれる」そういう審判を見守っていきたいと考えます。