カテゴリー: スポーツマンのつぶやき

この一週間の出来事

今週は平日からサッカーの審判と言うことがありました。

なんとT-1リーグの割り当てということで行ってきました。

割り当てってなんだ?という方のためにどういう仕組みになっているのか説明しますと、毎年夏にS3級審判向けに割り当てをもらいたい審判員への講習会があります。
昨年はクーパー走と筆記テストでしたが、国立霞ヶ丘で行われました。
そして翌月から東京都サッカー協会から日程確認のメールが送られてきて、それに土日の予定を記載して送り返すと、スケジュールに合っていた場合に派遣審判要請の連絡がきます。

昨年は主にU-15の高円宮とTリーグが来ましたが、年明けに「東京都社会人チャンピオンシップ向け審判研修会」という案内がきたのです。
東京都社会人チャンピオンシップは、東京都サッカー協会所属の社会人クラブチームが選抜され、トーナメントをしていくものであり、東京都社会人サッカーのトップを競うものとなります。
その審判は全てS3級から派遣されているため、150人の審判員がその研修会に出席し割り当てをもらうためにテストをこなしていくのです。

テストの点数は隣の人が採点しているためあっさりとわかってしまうのですが、私は八割程度というぎりぎりのところでしたが、二月にA2と第四審判員の割り当てがあり、そこで認められれば二次戦(決勝トーナメント)の審判割り当てがくるというものです。

私は残念ながら二次戦の割り当てが来なかった(といっても決勝戦だけはなぜか7月)ため、S2級審判の推薦は受けられないであろうと考えられるわけですが、少なくとも上を目指す審判は派遣審判もこなしていくことになります。

そして4/5は台東区チーム(NSP SIMBA)の練習に参加してきました。
プレーヤーとして登録して実際に出ているチームのひとつですが、最近は土曜日に少年スクールと、今年からチーム活動が始まるのでなかなか参加できていない状況でしたが、NSP CLUBの選手から審判証をあずかるため半分だけ練習に参加してきたという感じです。

4/6日曜日はC級指導者講習会でいっしょになったFC町田ゼルビアユースコーチであるじんちゃんこと神野くんのお招きで、U-18 T-3の試合の主審を担当してきました。
T-1の下部となるわけですが、運営の違いはなるほど区リーグのような感じでした。

審判が持ち回りということなのですが、S4級の審判ばかりなのとコーチが審判をやってしまうと・・・ということもあるため、私がお手伝いをさせていただいたのですが、こちらも良い経験となりました。
今後NSP CLUB Youthを作る計画をしておりますが、当面の目標としてT-3参加というのは掲げるべきだと感じた次第です。
そういう公式戦を通してU-18世代にも真剣勝負の場所を作ってあげることにより、将来サッカーで何かをする人が生まれるかもしれませんし、なにより「がんばってやった」という記憶を残すことにより、その次の世代に何かを生んでくれるのではないかと思っているのです。

もちろんNSPクラブの指導責任者である高木もそのあたりを考えているのですが、彼はそういうことを軽々しく口にしませんが、それは立場の違いであり現場責任者としての口の重さだと思っています。
代表としての工藤はそれと違い、やはり上の目標を口にするのが仕事だと思っていますし、選手を集める、スポンサーを集めるためにはそういう目標を掲げていることを言わねばならないというのが本音です。
そしてまたそれを実は高木と工藤の間で話がついているから「本当の目標」というのがどこかにあるのです。

少々はなしがそれてしまいましたが、90分の審判は良い経験をもらう時間になりました。

そして・・・本当は別件で出かける予定だったのですが、トップチームの参加者が少ないことが判明し、あわてて浦安へと行って来ました。
しかも・・・・・選手としてです。

25分×4本にフル出場したのですが、最初の二本は9人で戦ったためよく動きました。
しかも慣れないディフェンスゆえ、普段は監督として偉そうなことを言っていますが、選手から叱咤されながらラインのあげさげやマンマークを行ったのです。

木曜日からの四日間で90分+120分+90分+100分と合計400分走り通した体は、昨夜へろへろになりましたが、好材料としては肉離れが完治したのを確認できました。
まあ最後の二本はマークしていた選手に振り切られるシーンがあったのもありましたが、それでもなんとか結果は一失点のみですみましたので、悪いイメージはなく練習試合を終えることができました。
43歳の体には非常にきつい四日間ではありましたが、良い体験をした四日間でもありました。

来週からはスクールとジュニアチームの練習がありますし、土日はまたまたサッカー三昧というところでしょうか。

4/13はFC町田ゼルビアユースの帯同として、T-3の主審を担当してまいります。

HONDA F1 TEAMにロス・ブラウンが加入

このブログはあくまでも「NSPクラブ代表のスポーツのブログ」であるため、モータースポーツもこちらに書くことにしました。

実はサッカーと同じくらいモータースポーツが好きで、この影響は父からもらったものではないかと思っています。
フジテレビが1987年に中継を行う前、年末の深夜にTBSで放送されていた子供時代から、眠い目をこすりながら見ていましたし、もっと小さいころは8mmで見ていたくらいでした。

私達の中学一年のときに第一回フォーミュラワン日本グランプリが富士スピードウエイで開催され、翌年の事故があり中止にはなりましたが、フォーミュラワンのブームが来ている時代でした。
マンガでも赤いペガサスやアニメでもグランプリの鷹など、モータースポーツを煽るものが流れていましたので、その魅力にひきこまれる子供達がおおい時でもありました。

ちなみに赤いペガサスは今でも愛蔵しており、たまに読んだりしています。

と・・・前置きが長くなりましたが、私はサッカーと同じくらいモータースポーツを愛しています。
(繰り返しになりますが(笑))

ロス・ブラウンという人はフォーミュラワンチームで知らない人がいないくらいの人物で、ウィリアムズでのメカニックとしてスタートしいくつかのチームのディレクターを経て、ミヒャエル・シューマッハがいたベネトン、その後移籍したフェラーリの活躍は彼に因るものであるのは間違いありません。

その彼が一年間の休養をしてフェラーリに戻るのでは?と言われていたのですが、14日にHONDA加入が報じられたのです。
HONDAというのは日本のモータースポーツ界では唯一の存在といっていい程のチームで、儲けるためにレースをしているのではなくHONDAという理念がスポーツとしての競技を遂行しているのではないかと思っている程なのです。

その姿勢が鈴鹿サーキットでありツインリンクもてぎであり、1964年にまだ二輪メーカーであったHONDAが自動車業界に殴り込みをかける準備としてフォーミュラワン参戦を果たしたのです。
もともと二輪の世界ではトップにたったチームでしたし、その常勝っぷりは今のmotoGPまでもつながっているのです。

英国のMVが1950年代に「やり残したことはない」とGPを撤退した後、その記録をほとんど塗り替えるという医業を達成したチームが、フォーミュラワンでどんなことをするのかと世界の注目が集まり(いくつかは「所詮二輪メーカー」とみていたでしょう)ましたが、結果として参戦二年目で優勝という偉業を果たすのです。

そこから今日に至るヨーロッパでのHONDAブランドへの尊敬が醸成されているのですが・・・って、思い切り話がずれている(笑)

HONDAとSUBARUにかける私の情熱は、半端なもんではないんです。
次にくるのはNISSANでしょうか。

なんせバイクは最初のRD400を除けば全部HONDAですし、ニフティでは「日本HONDA党」と名乗っていたくらいです。

で・・・なぜこんなに興奮しているかといえば、今年最悪といっていい結果に終わったHONDAに、ロス・ブラウンがディレクターとして参加するというニュースが、HONDAとブラウン氏の本気度が理解できるからです。
「ドライバーのせいで勝てない」とは言わせないというブラウン氏の発言は、現場はおいらが引き受けたという姿勢に他ならないでしょうし、ブラウン氏の加入によりHONDAへのマークは今年はなかったにも等しかったものが、来年は他チームからのさまざまな干渉を受けることになるのだろうと容易に予想できるのです。

それは三年前にフェラーリについでコンストラクターズ(製造者部門)二位になったあの年のHONDAへの細かいチェックで想像が容易くできるのです。
来年のHONDAが急激に復活するとは思っていませんが、ここ数年不振だったマクラーレンプロジェクトは色々噂されているとはいえ息を吹替えしましたし、それがどうなるかというのは誰も予想などできません。
ましてや知的所有権以上にブラウン氏を手に入れたことが重要で、来年からのHONDAに期待をしてしまうのです。

私には男の子がいません。
男の子が生まれたら三歳の誕生日にはカートを送ろうと思っていたくらいです。
それはHONDAエンジンと共にトップに翔けあがった私のアイドルであるアイルトン・セナにあやかってのものだったわけですが、女の子だけですので妻からモータースポーツは反対をされました。
まあ当然といえば当然ですし、女性でフォーミュラワンというのは非常に難しい世界ですから、そのプレゼントも当然ありませんでした。

今後NSPクラブが発展していく中で、やりたいことの一つにドライバーとライダーの育成というのもあります。
ただそれもこれもまずはサッカーで成功を修めなければならないわけで、私の夢はまだまだ続いていくのです。
今はまずサッカーを一生懸命頑張って伝えていきます。