走ったら次は判断をしましょう

昨日の「まず走りましょう」の続きです。

審判ですから当然ながら走るだけというわけにはいきません。

競技規則にかかれていることを施行しなければならないわけですから、そのプレーや行為、再開方法が競技規則通りかの判断をしなければなりません。

私も審判を始めた当初、直接フリーキックと間接フリーキックを理解するのに時間がかかりましたし、7+3の直接フリーキックを覚えるのにはさらに時間がかかった記憶があります。

サッカーでは(というか「でも」だと思います)速い判断と言うのが求められます。

どちらのスローインか、どちらのキックか、コーナーキックなのかゴールキックなのか・・・最後にボールに触った側の相手競技者側のチームのボールで再開となりますから、それを間違うわけにはいきません。

これを間違うと「なんだよ、あの審判見えてるのかよ!」と思われるきっかけにもなりかねませんので、素早くも間違わずに「毅然とした態度で」再開をする方向を指すようにします。

「毅然とした態度で」というのがポイントですが、初心者によくみられる迷った上に「なんとなく」とやってしまうと、選手は「この審判は信じられない」と思ってしまうのですが、毅然とやっていると一つは「そう見えたか」とか「仕方がない」と思われます。

間違ってはいけないのが「仕方がない」と思われるのが良いことではないけれども、一生懸命にやっている審判であれば、こらえる選手というのも多くいるのが事実です。

一生懸命にやっている姿に見えず、不安に再開方法を示したらどうなるかというと、選手から当然ながら文句も出てきますし、場合によっては試合が荒れるという状況にもなりかねません。

昨日の「まず走りましょう」と言っているのは、審判として最初の仕事として走ることで「この審判は事象を捉えようとしている」と選手に伝えることが必要であって、真摯に試合と向き合っている姿勢を表すひとつのことなのだと考えてください。

その走りがあったうえではじめて選手が審判の判断を尊重してくれるということになります。

たまに勘違いをしている審判がいますが「審判は絶対なのだから文句を言うな」という態度の人です。

主審の権限は大きく、勝敗を含めて最終となっていますから、絶対的な権限はあるといえばあります。

しかしながら、その判断がどう選手や観客に捉えられたのかというのは、自分なりに省みる必要があります。

あの判断は正しかったのだろうか、判断をしたときに選手が不服そうだったのはなぜだろうか、異議ばかりを言う選手がいたが彼はうるさいだけだったのか、それとももしかしたら自分や副審の位置が悪かったのではないか・・・自分を冷静に省みることで、見えてくるものがあるかもしれません。

よく選手が審判をリスペクトしてくれないと聞きますが、審判であるあなたも選手をリスペクトしていますか?と心に問いかけてください。

上から目線の審判では選手も反発するだけですので、同じフィールドの上に立つ一人の人間として接してみるのはどうでしょうか。

難しいのは警告や退場を出すときが最も難しい判断となりますが、ここに書いてしまうと長くなってしまいそうなので次回以降に書くことにしますが、せっかく審判として試合にからんでいるのですから、その時を選手と一緒に過ごすための心の準備と体の準備はして臨むべきだと思います。

ですから「まず走る」、その次に「判断する」ということで選手や観客からのまずは信用を得て、試合の進行をスムーズに行うことができるようにやってみましょう。

しかし、これだけ書いている私でも、やはりオフサイドの判定を理解していない副審には文句を言う時もありますし、主審に対してそこから見える?と尋ねることもあります^^;

ぐっとこらえるときもありますが、やはりフラストレーションがたまるものです(苦笑)

まず走りましょう

この土日に何人かの審判を見ましたが、本当にいろいろなスタイル(といっていいのかはわかりませんが)の方がいらっしゃって、いろいろと勉強をさせていただきました。

銀色、青色、緑色、テレビでは金色、本当にさまざまという感じでしたが、私のことですからやはりグラスルーツに絞りたいと思います。

グラスルーツでも銀色の方はいらっしゃいます。

そこも踏まえての話となりますが・・・気になったのは走ることはできるんだけれども、徐々に厳しくなっていく審判というのが一つ気になりました。

つまりは判定の基準がどんどん下がっていくというわけです。

当初はこれくらいの当たりではファウルにしなかったのに、最後の方はどんどん笛を吹いてしまっていて、試合がとぎれとぎれになってしまう感じでした。

審判の言い分としては「手のファウルが多い」というものでしたが、感想から申し上げると「ファーストファウルが基準だとすれば、どんどん基準が下がってしまっていて、最初と最後の基準が異なっていた」と選手からも観客からも見えたのだと感じました。

ファーストファウルが厳しければ、今日はこれが基準となって同じようなファウルは少なくなると思うのですが、どんどん厳しくなるということはある意味試合が荒れるかもしれないと途中で基準を切り替えたことにより、余計に選手からの不満を受ける形になったのではないかと思われるのです。

選手やベンチが大人でしたから荒れるようなことにはなりませんでしたが、もし壊れた場合にどうなるかというのは想像をしたくありません。

残念な審判もいっぱい見てしまいました。

まず走ることができない、または走ろうとしないという審判でしょうか。

危険なタックルがあり、笛を吹くのはいいのですが40mも離れていては説得力もなくなってしまいます。

けが人が出たとしてそこに歩いていくようなことがあれば、選手から不信感を持たれかねません。

そんな審判を残念ながら多く見ましたし、少年の現場でも見ることになったのは何かをしなければならないという自分の中のきっかけになっています。

前にも「審判は一人」というエントリーをしましたが、主審の権限は大きく、また競技規則にきちんと定められているのですから、たとえ4級であっても、初心者であっても競技規則を施行するための最低限の努力をしていただかなければなりません。

走ることができない、走ろうとしないなどというのは一番最初の課題でしかなく、それがもしできないというのであれば、残念ながら主審の資格を満たさない可能性があります。

見極めるなどという前に、まずは走りながらその事象を追い続けなければ当然選手は納得ができませんし、周りで見ている人たちも違和感を感じるはずです。

そして私はそういうレフェリーに「やめろ」とは思いませんが、どうするべきかは考えてほしいと思っています。

特に「走ろうとしない人」については、よくよく考えていただきたいと願っています。

私などはあと数年で「走ることができなくなる」というレベルになるでしょうから、走ることができるのであればまずは走ってみるということからスタートしていただきたいと思います。

Tリーグや大学リーグなどで主審を務めさせていただくときに、副審が学生になることがあります。

その彼らに必ず言うことですが「自分が選手としてフィールドにいる時、そのジャッジに納得がいくかということを心がけてください」とお願いしています。

私もプレーヤーですからまず選手の気持ちを考えています。

ですからレフェリーとしてフィールドに立った時、何をしなければならないか・・・競技規則の施行もそうですし、選手の気持ちもそうですが、サッカーという楽しい競技をするために自分がそこに参加するための理由をみつけて、ぜひレフェリーも楽しんでいただきたいと思います。

コーチとしてプロとアマチュアの違い

前にピアノの指導をされている方に、厳しいながらも理解をさせる言葉を使う方と、言葉や物理的な体罰を使う方についての話をしていただいたことがあります。

似合わないかもしれませんが、工藤は子供の時にピアノを習っており、たいへんに厳しい先生についていたのです。
ただし、その先生は私に期待をするため、厳しいながらも理解させる言葉を使っていました。
たいへん優秀な先生でありましたが、私は完全に期待に沿うことができるレベルにまでは到達をすることはありませんでしたが、同じ時期に別の先生で厳しくてミスをすると物差しでたたいたり、怒鳴り散らすという仲間が担当されていた指導者のことを聞いたことがありました。

そのピアノの指導をされている方の話を聞いて、なるほどと腑に落ちたのはプロフェッショナルとはその事象などに対して、理解不足な人に説明ができるということを知ったのでした。

そしてその後、C級指導者講習会に参加をして、ほぼ同じことを伝えられたのと、講習の内容が今まで私が学んできたサッカーをまとめるものだったため、自分のサッカーライフを振り返ることになり、子供たちと接する時に言葉で説明がしやすくなったことを覚えています。

今もコーチとして現場に立つとき、ピアノの指導をされている方の言葉と、C級のインストラクターの言葉、そして自分のまとめが間違いなく役に立っていると感じます。

先日の怒鳴るコーチは結局はプロフェッショナルになりきっていないのだと感じますし、必要なコーチングができていないからこそ怒鳴る、もしくは選手たちを自分のコマかなにかと勘違いしているのではないかと思っています。

選手にも当然ながら人格はありますし、それぞれにスキルや考え方が変わってきますし、各個人は全く違うものであることをまず考えねばなりません。

もちろんコーチとは立場も人格も全く違うはずです。

それを「指導」という形であてはめようとすると、結果として「上から」の物言いとなり、選手の選択の幅を狭めてしまうことにもなりかねません。

当然ながら自己ができあがった選手に対しては、ティーチングも必要となってきますが、それは型にはめるのではなくあくまでも前提に対してどうアプローチをするかということであって、上からの物言いではなく考えるための材料になってきます。

社会人においてはコーチングよりも、より深いティーチングや共通理解が必要となってくるために、全く違うスキルができあがってきます。

そこからののびしろであったり、今までの経験やスキルからできあがった考える能力などはここによって違います。

ですが、チームとして一つの方向性を目指す際に「うちのチームはこうやっていく」という方向は、コーチや代表などが示していき、スタッフも含めた全員が共通の理解をしなければなりません。

それはプロチームであってもアマチュアチームであっても同じで、チーム内のコンセンサスが取れていなければ、そうそう勝てるチームなど作りようもありませんし、遊びレベルでいいならいいで、そのレベルでの満足度を得られれば良いのだと思います。

ですから実は社会人チームでは結構派手なコミュニケーションがあったりしますが、それは考え方の違いをぶつけるということであって、前向きにやるのであれば大いに結構だと思っています。

しかし、残念なことに選手の中にはそうではなく「自分が中心でありたい」という考え方や、自分だけの満足のためにやっている人もいるわけで、そういう人たちとチームの考え方が違う場合に、とんでもないトラブルが起きてしまうのも事実です。

アマチュアチームではそれこそ喧嘩になるわけで、プロチームでは移籍や果ては引退なんてことにもなりかねません。

還って、プロフェッショナルのコーチとは、育成年代であれ成年であれ、チームとしての基準や目標、それに対してのアプローチをまとめることができ、そのための方策を伝えられる人というのがあてはまると考えます。

そしてそこに「怒鳴る」「言い負かす」などということはなく、アプローチの説明や、今やっていることへの説明と準備、ゲームへのプランなどをまとめて確実に選手たちに伝えることになります。

それができてこそプロフェッショナルであり、アマチュアとは一線を画すことになるのだと思っています。

当然アマチュアのコーチの中にそういう方もいらっしゃいますが、全くの無償ボランティアの中には極めて少ない数しかいないのもまた事実です。

私が有償ボランティアも含めたプロフェッショナルなコーチに言及するのは、こうした理由によるものです。