私は現在、東京都サッカー協会のS3アクティブレフェリーをさせていただいています。
しかし、そこに至るにはさまざまなことがあったからで、結果として私はこの道に来たことが一つの正解なんだなと思っています。
そもそも審判を「しなくてはならなくなった」のは、二十歳の時に初めてコーチをさせていただいた時に、審判がいないからやらざるを得なかったというわけです。
当時は地域リーグで選手として世話になっていたのですが、チームでは審判がいらないため安心していたら、指導の方で必要だったというオチのようなものでした。
しかし、私は選手たちのことを考え…というきれいごとは置いといて、自分が選手としてフィールドに立っているときに、走りもしない、ジャッジもまともにできない主審では、私が納得しないな~と思ったからこそ、自分が審判となったときには必死で走り、拙くとも真剣に審判をやったことがスタートでした。
おかげで、少年サッカー大会の札幌市の笛を吹かせてもらったりしたわけですが、実は楽しんでやっていませんでした(笑)
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その後12年ほどプレーヤーとしてそこそこのレベルでさせていただいていました。
そして転機となったのは長女誕生でした。
それまでサッカーをプレーヤーとして真剣に取り組んできたのを、少し和らげようと都リーグ三部のチームに入団して、平日練習や毎週の練習試合というものから離れたのです。
ところが都リーグでは、選手が審判をやらざるを得ない状態のため、すぐに審判をとり、主審になるにはS3が必要だということで、半年後に取得したのです。
思えばこのとき、審判委員会の人から上を目指さないか?と声をかけていただいていたのですが、やっていたらどうなっていたでしょう^^;
とまあ、架空の話はなしで…
それから自分達でチームを作り、運営するには審判資格が必要でした。
ずっとコーチもさせていただいていたのですが、そちらは審判をせずに来ていたので、審判の重要性をないがしろにしていたのかもしれません。
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そこにまた転機が訪れます。
ある試合であまりにもひどいレフェリーに出会ったのです。
センターサークル審判法とでもいいましょうか、どうやったって見えないペナルティーエリア内のファウルまでセンターサークルから吹くのです。
そして最悪の事態が起こります。
ゴールキーパーをしていた(ゴールキーパーが一人でしたので、休むと経験のある私になるわけです)私が相手競技者に、ジャンプをしてキャッチする際、故意でかつ過剰に飛ばされて骨折をしたのです。
当然ながら退場となるプレーに対して、主審は歩いてやってきた上、注意だけでとどめるということをしたのです。
この時に痛いほど自分がサッカーをやっている環境を意識させられ、今でいうグラスルーツまで、審判のレベルを上げなければと感じた瞬間でした。
そこから自分の審判のレベルを上げるための努力をスタートさせ、東京都にアクティブレフェリー制度があることを知り登録しました。
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その後、葛飾区連盟の当時の審判部長に良くしていただきながらも、残念ながら少年部からスポイルされました。
しかし、台東区連盟に社会人チームが参戦していた関係で、葛飾でいらないならうちがもらう!と台東区の理事長からお声かけいただき、いまは副部長という立場で関係させていただいています。
今でも審判だけをやりたいか?と問われれば「否」と答えるでしょう(笑)
私はサッカーに関わっていたいわけで、その中での審判の比重が大きくなっただけです。
そして、その活動を通して思ったのは、レフェリーとして上を目指す若者をグラスルーツからサポートしていきたいことと、グラスルーツだからこそきちんとしておきたいことを考え、台東区連盟から推薦をいただきレフェリーインストラクターを目指すことにしました。
これらは全てサッカーのためだと思っています。
プレーすることも、コーチすることもやめることはありませんが、多分他の方と違うのは審判にそれなりに力を入れている部分が多いということなのだと思っています。
たぶん他の方からみると相当審判に力を入れているように見えるかもしれませんが、私にとってはサッカーの一部で力を入れている部分ということなのです。
それもこれも全て、サッカーを楽しむためというのは言うまでもありません。